冷凍都市のくらし、アイツ姿くらまし

独立して5年経った個人事業主のあれこれ

ネットに顔を晒すことはAV出演と同義だった

twitterfacebook、インスタで国民誰しもが、自ら情報を発信するようになって久しい。

 

それどころかyoutube、ニコ生、SHOWROOMLINE LIVE、ふわっち等では誰でも自分を映した動画をまるで芸能人のように生配信できる時代である。

 

自らの顔や個人情報を積極的に発信していき、それを直接的にしろ間接的にしろビジネスに繋げていくという手法は、現在では王道であり、もはや常識にさえなりつつある。

 

しかしながら、その風潮にどこか眉を顰めざるを得ない年代の人間もいる。

 

多分、今の30代から上の世代だ。

 

というのも、俺が今30代で、「もし今、これから確実に儲かったり、とても素敵な新たな人間関係を築けたり、可愛い女の子にモテるとしたらインターネット上で自分の顔や個人情報を晒しますか?」と聞かれたとしても、絶対にイヤだと思うからだ。

 

自分がそうだから皆がそうとは勿論言えないので、ただの予測でしかないが。

 

今の30代が10代~20代前半くらいの頃は、それこそネット上で一般人が炎上しまくっていた。

 

そこらの学生や社会人が2chで特定され、晒され、釣られ、コラ画像を大量に作られ、mixiの魚拓が貼られ、リベンジポルノが発生し、ウィニーで流出したエロ画像・動画が拡散され、ネット上で祭がよく起きた。

 

まあ今も勿論そういうことは毎日沢山起きているのだが、その頃はようやくニコニコ動画がまだ発足2~3年目で一部実況配信者や歌ってみた系の連中が持て囃されるようになっていたぐらいで、その数もそこまで多くなく、まだ今のヒカキンのような億万長者やとてつもない成功者というのも、ほぼいなかった。

 

つまり、ネットに顔を晒すということは、メリットよりもデメリットの方が遥かに大きかった。

 

当時ひたすらROMっていて、ありとあらゆる人間達がネット住民たちのオモチャとして使い捨てられていく様を見続けた(ある意味傍観者として楽しんでいた)自分は、誰に教えられるでもなくこう思った。

 

「ああ、ネットに個人情報なんて何があっても晒すもんじゃないな」と。

 

それはもう禁忌に近かった。それこそ自分がいきなりAVに出演して自らのケツの穴を広げて日本全国に放送されてしまうような、そういう「この世の終わり感」があった。

 

その頃の自分にとって、ネットに顔はおろか個人情報を絶対に晒さないということは、もはや「帰宅したらちゃんと家の鍵を閉める」ぐらいの超常識となっていた。

 

ところが、今は冒頭の通り、ネットで個人情報を晒すことは、もはや当たり前となっている。

 

そこらの小中学生達が放課後趣味で配信をするくらいに若い世代にとっては身近な存在になっているし、何かしらでバズって、自らをブランディング化できる人間だけが、より儲かり、より良い循環を生み出し、高みに昇っていける、そういう時代だ。

 

だが、そこに自分はどうしても抵抗がある。

 

そういう人達を否定しようとは思わないどころか、ある意味尊敬すらしているが、自分は絶対に嫌だ。

 

時代が変わっても、自らの常識が、あの当時のまま固定化されてしまい、絶対的な常識としてもう根付いているからだ。

 

昭和の時代は「TVを見ているとバカになる」「漫画を見ているとバカになる」「ゲームをしているとバカになる」とよく大人たちに言われていたが、その当時の大人たちもそういう常識に囚われていたのだろう。

 

自分はそれを「何を。そういったコンテンツから自分は沢山のことを学んできた」と鼻で笑っていたのだが。

 

きっと、今の若い子たちも、俺の考えを聞いたら同じように鼻で笑うのではないだろうか。

 

そういう意味で、今の10代~20代と、30代以上との世代では「ネットで自らを配信する」という事に関して、隔絶した絶対的な価値観の違いが存在していると思っているが、どうだろうか。

 

しかしながら、これからもネットがあり続ける限り、この風潮に歯止めは効かないだろう。

 

情報を制すものが戦を制すと同じように、ネット配信を制したものだけが勝ち残っていける社会になっていくだろう。N国立花の戦略なんてモロにそれだ。

 

言い換えれば、ネットや直接的な人間関係でのあらゆる悪意に耐えられるメンタルこそが、今成功するために最も必要な能力なのか。

生きるという苦行とストロングゼロ的なもの

死にたければ死ねばいい。

 

でも死ぬのは怖い。痛いのは、苦しいのは嫌だ。誰でもそうだ。

 

生きる為には必ず金を稼がなければならず、それは言い換えれば怠惰を許さないことであり、さらに何も変化のない繰り返しの日々は苦痛なので潤いを与えるべく、そこに無理やりの楽しみを見出そうとするのも、人によってはまたとてつもない苦行だ。

 

要は、生きるってことは面倒くさいことや辛いことを無理やりにでも頑張ってし続けないといけないということだ。

 

あー、早くこの自意識から解放されたい。次に瞬きをした瞬間に、この世よからパっと消えてしまいたい。心からそう思う時がある。

 

今は幼い娘が二人いるので、その幼い命が、その監護責任が、ギリギリの所で自分になんとか生きる為の強制力や活力をもたらしてくれているに過ぎない。

 

もし俺が独り身ならとっくに死んでたかもしれないなと思う。

 

30も過ぎると友達や恋人に会って楽しいという感情や、何かしていて気持ちいいという感情の全てが、何も考えたくない時に飲むストロングゼロと同じようにただの現実逃避の一時的な麻薬に過ぎないんだと気付くようになる。

 

常に楽しいなんてことはほとんどの人にとってはありえなくて、あくまで一時しのぎの覚せい剤のような役割をそれらを果たしていて、僕らは常にそれらに縋って生きているのだ。(だって、セックスレスってだけで離婚しちゃう人も沢山いるんだぜ?)

 

生きるのがつらくなると、俺は宇宙の動画をyoutubeで見ることにしている。

 

あと、wikiで第一次・第二次世界大戦の死傷者とか天安門事件のような大量虐殺事件を調べることにしている。

 

宇宙の、特に地球とそれ以外の星の大きさとの比較、宇宙自体の大きさを視覚的に取り込むと、まるで自意識から解放されたように、自分の人生も、他人の人生も、この世の全ても、そんなあらゆるものがちっぽけで滑稽でどうでも良くなるからだ。

 

虐殺や戦争で若くして亡くなった人達が過去に何百万人、何千万人といると、不謹慎極まりないが、安心する。志半ばで泣きながら死んでしまった人達がこんなに沢山いるんだ。俺の人生の何千万倍なんだ。ああ今、俺は痛みからも苦しみからも逃げて、のうのうと生きていられるだけ幸せなんだって。カイジの人間競馬と一緒だ。

 

これらの行為も深夜のストロングゼロと一緒だ。ただの現実逃避だ。

 

100万稼いでも日々の消費に消えるだけ。1億稼いでも、日々の退屈が待っている。

 

心からやりたいことや人生の目標と言えるものが何もないというのは、すなわち絶望だ。死にたくない。ただそれだけで生きている。

 

人生は、長すぎる。30代前半でこれとかこれからどーすんだ。

 

若い時はスゲーバカにしてたけど世の中の宗教が人々の心に巣食う理由も、なんとなく分かってくる。

 

家族を養う立場にいるという事実を完全に無視して個体としての本音を言えば、

 

ああ、早くこの日々苦痛を生み出す肥大化した自意識から何の苦しみもなく今すぐ抜け出したい。

 

それだけだ。

既婚も未婚も男はたいてい孤独になっていく

ママ友たちとコミュニケーションを取っている嫁を見ると、凄く実感する。

 

あー、男って…というか、少なくとも俺は年齢と共にどんどん孤独になっていくんだろうなぁと。

 

別に嫁に構って貰えなくて寂しいとか、そういう話では全くない。

 

嫁やその周りのママたちを見ていると思うのだが、女性は年齢差をあまり気にしない。

 

初対面の相手と10歳ぐらい年齢が違おうが、平然とすぐ互いにタメ口になって対等に世間話をしたり旦那の愚痴を笑い合いながら零していたりする。

 

これが男同士の場合だと、どうだろう。

 

例えば俺は今33歳だが、相手が43歳なら心のどこかでは会社の上司や先輩と接するような少し謙遜した態度が節々に出るだろう。勿論余程のことがない限りは常に敬語だ。

 

逆に同じ環境の22歳が相手なら、常に敬語であったとしてもやっぱりどこか会社の部下や後輩に対してのような、良く言えば可愛がる心境、悪く言えば少し舐めているような心境になりがちだ。

 

男性はどうしても「年齢」をある程度「社会的地位」に変換させて、そんなバイアスを通じて同性を見てしまう。

 

体育会系のように明確に上下関係があるわけでないが、少なくとも初対面の10歳下が打ち解けて割とすぐタメ口を利いてきたら「失礼な奴だな」と思うし、逆に打ち解けても10歳上にタメ口を効こうとはまず思わない。例え年齢がタメだったとしても、友達というより、あくまで比較的仲の良い取引先という感覚が近いだろう。

 

多少固っ苦しい礼儀というか、マナーというか。そういうものは付き合いに欠かせない。パパ友なんかがいる場合、そんな感覚の人は多いんじゃないだろうか。

 

ところが、冒頭にある通り、女同士だと「社会的地位」云々という要素は全然なくてどっちかと言うと「同じコミュニティに所属する一員同士」という意識が強い。

 

まあ地域や子供の年齢次第では世間一般的に言われるママ友カーストみたいなものも出来てくるのだろうが、少なくとも子供がまだ幼児であるウチの場合は、今の所そういったものとは無縁だ。

 

だから、女同士だと「何かあったら助け合いましょう」みたいな感じで割と頻繁にママ友コミュニティでワイワイとやり始める。あくまで互いに「ママ」という立場があってこその関係だが、割と思春期時代の友達関係に近いものはそれなりにあるだろう。

 

でも男同士だと友達同士って感じには中々ならない。やっぱり職場や取引先の人間に対してみたいに、どこかで一線を引いてしまう。

 

マイルドヤンキーみたいに学生時代の友人関係がずっと色濃く続いているなら、その中では勿論昔の感覚のまま友達同士なのだろうが、田舎に比べて都会寄りの地域では学生時代の交友関係がいつまでも濃く続いているケースはそんなに多くないだろう。

 

女は多分何歳になっても気楽にコミュニケーション相手を自分の生活圏内の周辺で見つけてくるし、その中で対等な関係を築くのが早い人が多い。実際、公共の場でオバサン達が集団でペチャクチャしてても周囲の人達は何も思わないだろう。よく見る光景だ。

 

ところが、男はそうはいかない。

 

まだ何も持たなかった学生時代は集団でつるんでいた男達も、独立して社会人になって家庭を持つような年齢になると、社会的地位を背景にしたプライドをそれなりに持っているので、いくら似た境遇だろうと、他人とあまり私生活で馴れ合わなくなる。

 

っていうか、とっくに引退したジジイの年齢ならともかく、30~50歳くらいの会社で係長~部長やってそうなオッサン達がプライベートに公共の場で集団で学生みたいにワイワイはしゃいでたら、なんかキモいだろう。いい歳してみっともない。

 

そういう世間の目も、多少は関係ある気がする。

 

気付けば、還暦を迎えた妻にとって旦那は「沢山あるコミュニケーション相手の一人」となり、還暦を迎えた旦那にとって妻は「会社での付き合いを除けばほぼ唯一のコミュニケーション相手」となっているケースが多い気がする。

 

そして、そのまま定年を迎えれば、拠り所であった「社会的地位」も綺麗さっぱりになくなり、目出度く「ほぼ誰からも相手にされない孤独なジジイ」の出来上がりである。

 

旦那が死んでも人生を笑顔で謳歌する妻は多いが、妻が死んだら無気力になって自分もすぐ死んでしまう旦那は多いのだ。

 

そして、「寂しい」という感情は、本当に厄介で、これほどまでに年齢によって受け手の印象が変わるのに、ほぼ全ての人間が疾患する可能性のある「病」は他にないんじゃないかと思う。

 

10代~20代の若者が「寂しい」と言えば、周囲は共感・同調してくれるし、場合によっては誰かがすっ飛んで来てくれたりする。要は関心を持ってくれる人間がまだまだ多い。

 

でも中年~老人が「寂しい」と言っても、キモいだけだ。誰も近寄ってくれないし、近寄って欲しくもないだろう。それどころか、犯罪者予備軍みたいな扱いをされることさえもあるだろう。

 

つまり、「孤独なオッサン」はもう救われないのだ。

 

人生でキラキラと光り輝く10代~20代はあっという間で、それ以降の淀んだオッサン期の方が、人生では遥かに長い。

 

多分30代前半の俺も、本当は今の内から孤独を遠ざける為に色々努力をしていかないといけないんだろう。老後資金を貯めるように、少しずつ。

 

でもさー、イイ歳して「仲間!友達!」とかキモくない?っていうか若い時は全然許されるどころかエモいとか言われるようなものでも、オッサンになると途端にその言動が基本的に全部キモいになっちゃうのってマジで何なんだろうね。

 

自分に対して、どうしてもその感情が拭えなくて中々行動に移せないわ。

性欲と若い男の子と女の子への嫉妬と羨望と過去と今

性欲が強かった。昔は。まあ男なら若い時はある意味当然だ。

 

性欲が強いということは、異性に対して「いいな」と思う回数が多い事でもある。

 

=それは、無数の挫折を生む。

 

いや=は言い過ぎだった。イケメンでないから=となる。

 

閑話休題

 

兎に角、昔は女の子が大好きだった。

 

そして、俺には根性とか自信が無かった。

 

っていうか、間違いなく自分はHSPだった。

 

kiraku-infomation.com

 

HSPってのは、上の記事にある通り、なんつーか敏感だ。要は空気をよく読む。

 

相対する相手の目線、仕草、挙動、言葉の選び方、間の取り方、半径1mを覆う空気、そういったもので、相手が今現在何かを考えているか、自分に対してどう思っているか、そういったものを右脳が直観的に理解しまくる。

 

サトラレって映画とかドラマあったじゃん。あれの逆バージョン。誇張すれば。

 

理解しまくるとどうなるか。分かるんだよね。

 

相手が自分とどれだけ距離を取りたいか、とかそういうネガティブな要素が。

 

特に女ってそれを雰囲気や匂いで醸し出すのが上手くて、女同士はそれを敏感に嗅ぎ取って、女特有の社会を築いていくんだけど、好意の有無や困惑については言葉に一切されなくても俺は男の割には理解できる方だと思う。

 

それはある種、他人から見れば被害妄想とも取れ、ある種自分からしてみれば他ならぬ真実だったりする。

 

んで、そういった人生の中で無駄に沢山傷ついてきた自分は、悔しさと共に、倒錯した憧れのようなものを抱くことになる。

 

可愛い女の子って、いいなぁ…。という。

 

自分を幾度も絶望させたソレは、いつも自由気儘に、掌で男を常に転がす存在だった。

 

というか、可愛い女の子がただ其処にいて、それを見て、「ああ…いいなぁ…」っ思う自分から抜け出したかった。なんか、一方的にそう思わされるのが悔しかった。

 

でも、俺は現に「いいなぁ…」って思ってしまっているし、世の中の男たちも皆、そういう子を「いいなぁ…」って思っているようだった。

 

そんな彼女は、すかした顔で、そんな周囲の思惑を物ともせず、いや余裕で受け止めて気持ちよくなって、鼻で笑って、そして凛とした面持ちで、足早に街を闊歩していく。

 

それが、なんか溜まらなく悔しかった。

 

それと同時に、自分もそうなりたいって、何故か思った。

 

いつだってモテなかった俺は、いつだって「可愛い女の子」に対して、どこか神聖視をしていて、不可侵で、自分には恐れ多い存在だと、心の底から認識してしまっていた。

 

それでも、まあ自分なりに若い時は若気の至りで無神経なフリをして無茶してきた。

 

だから、モテない自分でも可愛い女の子と多少は夜を一緒に過ごすことが出来た。

 

でも、奥さんがいて娘が二人いて髭生やしてツーブロックゴリラの髪型になった今でも渋谷とかで18~19歳くらいの若い可愛い女の子がキャピキャピしてると、あるいは若い韓国ファッション気取った男の子とそういう女の子が一緒にキャピキャピ歩いてると、どうしようもなく劣等感が刺激されて、なんとも言えない気持ちになる。

 

おかしな話で、自分も10代後半~20代にかけて散々似たようなことやってきたのに。

 

多分、女に自然とモテてきた男と、モテない俺との価値観は全然違うんだと思う。

 

俺は常に、常に無理をしてきたから。

 

それはもう数じゃないのよ。

 

3人とヤリました。5人とヤリました。4人と付き合いました。6人と付き合いました。

そういうことじゃない。

 

生まれついての本質、陽キャ陰キャみたいな枠組み。

 

でさー、そーゆーコンプレックスが未だにこびりついてんの。

 

30歳越えても。家庭持っても。年収1000万越えても。

 

なんか、つくづく情けなくて笑っちゃうよね。

 

自信ってどーやったら持てんだろうね。

 

例えば、道端歩いてて、目の前で190センチのガタいがめっちゃいいイケメン白人外人と175センチ(+ヒール履いてる)くらいの超美人のモデル女が腕組みながらこっち向かって歩いてきて、それと擦れ違う時に172センチしかない自分は、白人彼氏より頭一個分身長低くてむしろ女より普通に低くて、普段仕事頑張ってるとか俺の内面がー学歴がー稼ぎがーとかそういうの全部すっとばして、なんかすごく情けないというかみっともない惨めな居た堪れない気持ちになるんだよね。

 

冷静に見れば、すげーバカじゃない?なんで外見一つ取ってそーなるのって話で。でも不思議と、なんか色々負けた気になっちゃうわけよ。

 

それを堂々と「オレは立派だぁ!」って気持ちでオラオラズンズン闊歩できるようになれるならなりたいわっていう話ね。

マンションvs戸建て

最近、戸建てを検討し始めた。

 

今は割と新しめの分譲マンションに住んでるけど、今の住まいに10年後、20年後住んでるイメージが全然沸かないので。

 

そもそも、管理費と修繕積立金がどう考えても将来ヤバくなる。

今はまだ全然大した金額になってないけど。

 

よくスーモとかで築15年とか20年のマンションとか中古販売で出てるけどさー、大抵、管理費と修繕費だけで毎月4万オーバーとかになってんだよね。まあ最初客寄せパンダで管理費修繕費を安く設定しといて結局5~6年目に理事会で再計算して「あれ?このままだと大型修繕までに全然足んなくね?」ってなるテンプレパターンの慣れの果てな。

 

仮にもうその後一切値上がりしないと想定しても毎月4万だぜ?

年間48万、10年で480万、20年で960万。30年で1,440万円。

ローン返済しきったとしても、これだけかかってくるし、ましてやそういう物件で3000~3500万ぐらいのローンを35年で絶賛返済中だとしたら結局毎月15万ぐらいかかることになるんだよね。しかも、もしこれで車あったら駐車場台も+1万以上かかるわけで。

 

15万って5000万の戸建ての毎月返済額より高いすよって話で。

 

てか4万ってもはやちょっと田舎の一人暮らし1LDKぐらいの値段じゃん。

都心に通える関東圏内でも1DKでいくらでもあるわっていう値段じゃん。

それが維持費で毎月必ずかかるって結構なムダ金だと思うんだよね。

 

それが戸建てだとモノにもよるけど精々半額以下で

抑えられるじゃないのっていう思いはある。

 

あとマンションは狭い。4LDKなら80平米超えてくるだろうけど、そもそも販売戸数が極端に少ないし、それでも精々80平米程度だ。3LDKだと70切るとかザラだ。3LDKとか将来的に子供部屋をしっかり二人に確保してあげたら残り1部屋しかないわけで。まあ親の寝室になるんだろうけど、え…仕事部屋とかプライベートスペースは?ってなる。

 

3LDKだと当然そんなもんは望めない。オヤジが帰宅後リビングでいつまでもビール飲みながらTV見てる家ってあるだろ?あれが3LDKや。そこしか居場所がないから。

 

あとマンションは狭いので収納も大したことない。

 

子供二人がこれから育っていき、荷物も家具も服もガンガン増えていくことを考えると、やっぱり100平米ぐらい欲しいとか思っちゃう。っていうか今でさえストライダーやベビーカーをサラっと置いておける2畳ぐらいの土間スペースが玄関横に欲しい。

 

とか考えると、多少今より高くてもやっぱり戸建ていいよなぁとか思うんだけど、マンションのいいところはガチのマジでスゲー気軽にリセール出来るとこだと思う。

 

勿論立地にもよるけど、戸建てに比べたら、圧倒的に売りやすいし、売れやすい。

 

だから20後半~30前半ぐらいの人が家庭持ちはじめて、とりあえず家買うかってなったらマンションはスゲーオススメ。

 

だって将来分かんないじゃん?子供増えるかもしんないし、自分や嫁の勤務地が大幅に変わるかもしんないし、子供を希望の私立に行かせようとしたら遠すぎるとか、なんか色々ライフプランとか生活状況って変わってくるじゃん。

 

そん時に「よし、売ろう」ってすぐ思えるんだよね、築10年程度のマンションは。

テンション的にはマジで賃貸解約の時とあんま変わんない。

まあ勿論安売りしたくないなら数カ月~半年とか多少の時間はかかるかもしんないけど。

しかも最近マンション高騰してっから普通に手数料差っ引いても売却益100~200万くらいなら狙えたりする。

 

で、ある程度家族のライフプランが見えてきたら、広い戸建にチェンジってのが割といいんじゃないかと個人的には思う。

 

で、戸建ても建売だと上物がショボくて収納スペースも大したことなかったり(玄関横に土間がなかったり屋根裏収納がかったり)するので、やっぱ注文住宅がええなって思ったんだけど、土地探しは運ゲーだし、ハウスメーカー多すぎだしで、ちゃんと騙されないで満足度高い住居を作ろうと思ったらスッッッッッッッッゲーーーめんどくさい事に気付いた。

 

てか自分のことだけを考えるなら、今の仕事ならぶっちゃけ北海道だろうが沖縄だろうが、土地安いとこ選び放題なんだが、嫁が今の地元でママ友ネットワークをすでに構築済みで離れたがらないのでまず無理っていうね。

 

戸建ては住めることになったとしても、数年単位ですげー長期戦になりそう。

興味を持とうと足掻くのがすでにキツい

俺は、今の自分が昔の自分と比べて、凄くつまらない人間になっているという自覚を強く持っている。

 

青春時代に比べて凄く感度が低くなっている。

 

例えば、少年時代はドラクエの発売日にはドキドキワクワクが止まらなかった。

 

かっこいい曲を聴けば、それを演奏している自分を想像して鳥肌が立った。

 

可愛い女の子とどうすれば仲良くなれるか思案を巡らせることも日々余念がなかった。

 

付き合って振られた日は当時新作だった新海誠の秒速のコスモナウト見て泣いたり。

 

見惚れた数万円のブランド服を買う為に一生懸命頑張ってバイトしたりね。

 

渋谷や六本木のクラブで非日常感を味わいながら踊るのが楽しかった。

 

美容院で髪の色を数カ月毎に金にしたり、赤にしたり、青にしたりして楽しかった。

 

こういうのは極々一例だけど、「欲しい何か」とか「したい何か」で毎日が溢れていて割と常にワクワクしていた。

 

それに比べて、三十代の今ですよ。

 

インスタツイッターSNSは何もやらない。youtubeニコニコ動画も見ない。TVも見ない。映画も見ない。アニメも見ない。ゲームも昔ほどハマれない。漫画も過去に買いまくった数千冊があるけど新作は全然増えてない。服も滅多に買わない。買っても昔と違って周囲から見て「パパ感」ある恰好しないとダメな気がして無難に無印とかユニクロになった。髪は2カ月に一回刈り上げて真新しいツーブロックゴリラになるだけ。音楽も全然聴かなくなった。ギャンブルは昔からしない。車も別に欲しいと思わない。

 

どうした。どうしてしまったんだ一体俺は。

 

割とつまんないんだよ今は毎日。

 

でもあらゆることに全然興味持てない。

 

興味を持とうと努力はしてみる。

 

でも、やっぱり、すぐにどうでもよくなってしまう。

 

どうでもいいっていうか、無理に続けようとすると、もはや苦痛になる。

 

まるで去勢でもされてしまったかのような変わりようだ。

 

でも、俺はまだ楽しみたいんだよ。

 

何かに強い興味を持っていたいんだよ。

 

じゃないと、毎日が楽しくならないだろ?

 

無気力人間よりも多趣味な人間の方が、ずっと生き生きしてて魅力的だろ?

 

でも最近、無理やり自分にそう言い聞かせるのも疲れてきた。

 

何かに興味を持たないと人生はつまらないのに、興味を持とうと努力しても苦痛しかないって完全に詰んでる気がする。

 

オッサンになるってこういうことなのか?

 

この世にどれだけ娯楽が溢れてても興味が持てないんだったら地獄でしかないやんけ。

自分と世界とぶっ殺す覚悟と罪悪感

自分は、自分の人生においての主人公だ。

 

大抵の場合において、自分の人生の幸せを自分以外は誰も心の底から本気で考えてはくれないし、その幸せを掴む為の行動も全て自分次第だ。そして仮に大人になって職場で集団的なイジメにあったとして、身を挺して他人がそれを救ってくれたりもしない。自分で解決の糸口を探るしかない。あるいは自らの足で逃げるしかない。実の親だって助けるのは無理なのだ。時間的に、物理的に。

 

これは全て至極当たり前の話だ。

 

例えば俺が何かを見て、何かを聞いて、何かを思って、何かを考え、何かを主張する。

 

例えば、俺にとって善悪があって、これは良い、これは悪い。

 

これはカッコイイ、可愛い、これはキモい。そういう判断基準が存在していて。

 

例えば、酒に酔っ払って、万能感に酔いしれ、気付けば、心地よく眠る。

 

それらは生きていく上で当然、全て許された行為で、自然発生的なことだ。

 

そういうことを数十年間積み重ねてきて、今の俺に至る。

 

でね、話は少し飛ぶんだけど、いつものように繁華街を歩いていて、あるいは新宿駅みたいな雑踏まみれの駅内を歩いていて、大量の人間と擦れ違って。

 

そんな時にふと思う。

 

ゴミみたいな群衆1人1人の中に、俺と同じような感情や人生があるんだなぁって。

 

ただ、あるんだなぁって、そうは思うんだけど、不思議と全然実感は沸かないのよ。

 

スマホに釘付けのねーちゃんも、不機嫌そうに歩いているリーマンオヤジも、部活の重そうなバッグ肩にかけて歩いているにーちゃんも。

 

誰も彼も、俺と同じように色々なものを積み上げて、短くない人生を歩んできた、同じ価値を持つ、そこに何の優劣もない、何物にも代えがたい一つの生命体にも関わらず。

 

素直な実感としては、ただただ目障りで邪魔なゴミでしかない。

 

何の感情も湧かない。何なら目の前でそいつが突然血ィ吹き出してぶっ倒れたって。

 

当たり前だ。究極的に赤の他人だもん。心の底からどうだっていい。

 

ただただ、俺の邪魔になったり、俺の迷惑にならないように足早に立ち去るだけ。

 

そして、駅内で擦れ違う、あるいは繁華街で擦れ違う数百人、数千人という赤の他人も、間違いなく俺に対して同じように思っていて。

 

俺も、俺の隣をたまたま歩いているオッサンも、若い女の子も。

 

その場の周囲にいる1万人にとっては、どうでもいい存在でしかない。

 

そしてそれは、その1万人一人一人全てがその周囲にとって等しく同じ状態だ。

 

これを拡大していくと、世界の、日本の99.9999999999999999999%にとっては自分というのはどうでもいい存在で、それこそゴミに等しい。

 

大抵の人にとっては、あくまで自分の家族だとか学校の友達だとか会社の同僚上司だとか、0.00000000000000000001%ぐらいの物凄く狭い世界の中においてだけ、その人は「名無しのゴミ」ではなく、「〇〇さん」という人格と人生を持ったヒトだ。

 

でね、そんな大抵の人にとっては本当に心の底からどうでもいいゴミみたいな存在が、twitterやらブログやらyoutubeやらの何らかの媒体を通して、あるいは着飾ったり、自分なりの髪型恰好をしたり、肩をいからせて街中を闊歩してみたりして、隙あらば一丁前に「自分」を世界に発信しているわけですよ。

 

宇宙全体から見たチリ以下の存在が、懸命に何かを吠えてるわけですよ。俺は俺だーって、言葉で、あるいは全身を使って、世界に何か発信してるわけ。

 

それを「どうだっていい赤の他人」として見ている時、俺は他人がしているその行為を、凄く傲慢で押しつけがましくて恥ずかしくてみっともないと思うわけですよ。

 

でも、冒頭に書いた通り、それぞれの人生の主人公はそれぞれだ。俺もそうだし、俺以外の誰かにとっても例外なく皆そうだ。

 

でも、繰り返すが、個が個であることは、それ以外の99.9999999999999999999%にとっては死ぬ程どうでもいい、あるいは邪魔なものでしかない。

 

いやほんと無関心どころか、ただただ邪魔なんだよ駅とか街中の道歩いてて。

 

老若男女問わず、こいつら全員今すぐ死ねばいいのにって本当に心の底から何百回も思った。

 

多分みんな同じこと思ってると思う。それぐらい雑踏で目に映る赤の他人ってどうでもいいどころか害悪でしかないんだってマジで。前をとろとろ歩いてたり、自分の行く先を横から遮ったり、ぶつかってきたり、邪魔でしかないでしょ。

 

っていう、おこがましい意識の集まりが毎日毎日、何百万、何千万と集まってそれぞれが一応人生の主人公として自己主張したり、街をズカズカと踏み荒らしている状態というのが凄く気持ち悪いと思うし、自分はいつだって、それらを構成する中の「一人」という超最小単位でしかないという事実に、俺は無意識に酷く罪悪感を覚える。

 

そして、それが日本中のあらゆる所でぶつかり合って、煽り運転だとか殺人だとか喧嘩だとか事件だとかに毎日に発展していて。

 

かといって、自分にとってどうでもいい他人の目に振り回される必要もないわけで。

 

だって、堂々巡りだけど、自分の人生の主人公は、他の誰でもない自分だけなんだから。

 

っていう、改めて考えるまでもない当たり前のことをさ、毎日通勤中にふと思うんだけど、頭おかしくなりそうになる。

 

「こいつら今すぐ死なねーかな」「跡形もなく消えてくんねーかな」って、オレも、目の前の赤の他人もお互いに思ってんだぜ?

 

「目の前の人は〇〇さん」って認識できないだけで、こういうカテゴライズだからな。

 

一歩外に出ると、毎日毎日「個vs世界」の殺伐具合に辟易しますよ。