冷凍都市のくらし、アイツ姿くらまし

独立して5年経った個人事業主のあれこれ

真面目かつ善良であることを子供に教育すべきか

絵本なんかを読んでいても、低学年向きの国語の教科書なんかを読んでいても、真面目かつ善良であることを美徳とする話は昔から多い。それこそお伽話だってそうだ。

 

しかしながら。

 

森友文書改竄を行い自責の念で自殺した財務省職員や、内閣官房副長官補室に配属されていたコロナウィルス担当の警視庁の人間が自殺した件、郵便局の過剰ノルマに追い詰められ自殺した郵便局員電通に務めたエリートで忙殺されて自殺した若い女性社員、ここ10年で何人もの人間がパワハラ被害により自殺してしまった三菱電機の社員、栃木県でママ友によるイジメが原因で自殺してしまった主婦…etc。

 

こういう人達は皆、ことさら責任感が強く、自分を責める相手のことを責めきれず、自分一人で全てを背負って何とか状況を改善・打破しようと不断の努力を続けていたにも関わらず、最後は心が壊れてしまい、自殺してしまったように見える。

 

こういう人達は本当に報われない。自分の命を投げうって最後は自殺してしまうぐらいまで自分の責任を何とかやり遂げようと、それほど真面目だったのに。

 

パワハラしていた人間やイジメをしていた人間、その立場に当事者を追い込んだ人間達が死刑になるわけでもクビになるわけでもなく、組織も加害者も本当に大した罰も受けず、良心の呵責に苛まれることもなく、のうのうと今も生活している。

 

人をそこまで追い込む人間が、真面目かつ善良であるとはとても言えないだろう。

良心の呵責どころか下手したら飲み屋で自分が誰かを自殺に追いやったことを自慢するようなバカさえもいるだろう。

もはやスラム育ちの犯罪者と何ら変わらない思考。

 

だが、そういう奴こそが厚顔無恥で生きやすく、多くこの世にのさばっている。

 

憎まれっ子世に憚る、というやつだ。

 

よく、人は自分と同じような考え・レベルの人間が集まるものだ、と言われがちであるが、皆様ご存じの通り、社会に出ればそんなわけがないのだ。

 

生まれた時代も場所も環境も信条も信念も思考も態度も性格も人種も人間関係も、何から何まで自分と違う人間達が周囲に大勢張り付いている。

 

東大に行くようなエリート達の間ならば低学歴の高校で起きるような暴力的なイジメは頻繁に発生しないのではないか?なるほど、確かにその確率は低いかもしれない。

 

しかし、おそらく自殺した財務省職員やコロナ対策の警視庁職員などは少なくとも低学歴ではなかっただろう。結局、学歴があろうがなかろうが、社会に出れば真面目であるが故の責任感を搾取されて自殺に追い込まれる人間は多々発生する。

 

この責任感の搾取、というのは、言い換えればブラック企業のやりがい搾取と本質的には何ら変わらない。

 

こう考えると、ただひたすら真面目であること・善良であることが正義とはとても言えない。いや、正確には正義であるはずなのだが、このゴミのような世の中では、その正義はあまりにも弱く、脆いということだ。

 

真面目で善良であることを、まるで弱点であるかのように捉え、追い詰め、恫喝し、無理をさせ、搾取する悪い経営者や上司など、いくらでもいる。

 

ということを、俺に言われるまでもなく勿論とっくに体を持って知り尽くしている我々子の親は、ではどういう風に自らの愛しい子供に、伝えていくべきなのか。

 

自分が何か悪いことをしてしまったら、間違ったことをしてまったら、「ごめんなさい」と謝れるようになろうね。

 

人に会った時は「おはようございます・こんにちは・こんばんは」と挨拶が出来るようになろうね。

 

自分のしたいことや欲しい物を望む他の人間がいる時は「順番を守って」しようね。

 

など、我々は自らの子供に社会や組織における最低限のルールを教えていくわけだが、そもそも「何か悪いことや間違ったことをしてしまったら、ごめんなさいと謝れるように」というのが、真面目かつ善良の下地みたいなもんである。

 

パワハラやイジメをするような加害者は、何か悪いことをした時にごめんなさいと被害者に謝るだろうか?謝るわけがない。謝るぐらいなら最初からしないのだから。

 

つまり、そういう人間は、自分とは違う教育を受けてきた人間なのだ。或いは、同じ教育を受けたがそれらが何も身に付いていない人間なのだ。教育を受けて身についている側からすれば、相手はまともな人間ではない。価値観と文化がまるで違う人間だ。

 

価値観と文化が違う人間に、一個人がこちらの価値観と文化に合わせるよう説得しても無理だ。

 

それは、説得する側が例え国家権力であっても難しい。

 

国によって定められた「法」という価値観と文化を、刑罰と一緒に相手に幾ら伝えたとしてもだ。

 

刑務所から出所した人間が、どれだけ再犯を犯すか見れば分かるだろう。

そんなものを一個人が個人や組織を相手に安易にどうにか出来るわけがないのだ。

 

じゃあ、そういう人間が自らの子供のすぐ目の前に現れたら?

 

「あの子と付き合うのはやめなさい」「あの子とお友達になるのはやめたら?」

 

なるほど、幼い子供の時はそれで済むのかもしれない。

 

では、同じクラスや学年にそういう人間がいる中高生の場合は?

 

同じ会社・同じ部署にそういう人間がいる社会人の場合は?

 

相手の非人道的または不正または法令違反行為を糾弾し戦う、それに耐える、逃げる。

 

大体の場合、大まかに分けて三択だ。

 

ここで耐えるを選択すると、冒頭例のように最悪の場合、死ぬことになる。

 

では戦うか、逃げるか。

 

理想は戦うだ。仮に真面目かつ善良であるべきことを我が子に伝えてきたのならば、それを何ら守らず自分や他者に迷惑をかけ続ける存在である相手と戦い、打ち勝ち、相手が心から反省しているかどうかに関わらず、もう同じことはしたくないと思えるほどのペナルティを負わせることだ。

 

しかし、容易ではない。

 

大抵の場合、そういう相手の方が自分より大きな権力があったり、大きな組織を味方につけていたりする。頑張っても負ける確率は高い。仮に負ければ、耐える以上の苛烈な報復が待っているだろう。

 

では、逃げる。

 

これが一番てっとり早い。だが、問題はある。

 

逃げた先にも同じような人間がいる可能性は、幾らでもある。

 

転職先や転校で配属された部署・クラスにいなかったとしても、人事異動・クラス替えの瞬間にそういう相手が突如現れることもある。

 

じゃあ、その度に逃げなきゃならないのか?何ら間違ったことをしていない側が?

 

戦うなら強くなければならない。その正義が通せるように。

 

三菱で、財務省で、パワハラや不正を強要してくる目上の人間の証拠をしっかり残し、それを世間に公開したり、弁護士と共に訴訟したり、その間どれだけの脅迫や恫喝、圧力を集団から受けようと一切引けを取らずに一人で立ち向かい続けなければならない。

 

自分だけではない、自分の家族、愛する人、それらに危害が及ばぬように、それらを懸命に守り通しながら、勝つまで、いや勝った後も、守り続けなければならない。

 

耐える・逃げるなら、明確なボーダーラインを決めておかねばならない。一体、自分はどこまでなら耐えられるのか?一体、どこまでされたら逃げていいのか?

 

それを定めておかないと、自らに仇なす者が溢れ、いつ現れるかどうか分からないこの世界で、簡単に行き場をなくし、最後は独りになってしまう。

 

そう、真面目かつ善良であることは、かくも厳しい。かくも辛い。かくも弱い。

 

正義であると教えられたはずなのに。

 

本来は、円滑かつ平和に社会生活を歩み、多数の人間と共存する為に必要だからこそ説かれたはずの「真面目と善良」は、90%との意思疎通と調和に最大限役に立っても、残り僅か10%のそうでない人間の生贄となる数%の人間達を常に犠牲にし続ける「生贄の儀式」と同義とも言える。

 

耐える・逃げるのボーダーラインを高める為に頭脳と精神・体力を鍛え、いざという時逃げの手が即座に打てるほどには責任に固執せず不真面目でいなさいと。

 

現代社会の日本に生きる我々は、我が子にそう教えるしかないのだろうか。